日本史の謎|聖徳太子と古代ペルシャ・ゾロアスター教の知られざる関係

日本史の中で、聖徳太子(厩戸皇子)は飛鳥時代の改革者、仏教文化の導入者として知られています。しかし、その太子像の背後には、私たちが見落としてきたもう一つの文化的層が潜んでいるのではないでしょうか。それが、古代ペルシャ、そしてゾロアスター教とのつながりです。

近年の研究や伝承の再検討によって、太子とペルシャ文化との関わりが浮かび上がってきています。本記事では、聖徳太子の生涯や思想、飛鳥の建築・祭祀に秘められた「光の宗教」との交差点を探っていきます。

厩戸皇子とキリスト教的伝承

聖徳太子の幼名は「厩戸皇子(うまやどのみこ)」。その意味は“馬屋の戸口で生まれた皇子”。これは、イエス・キリストが馬小屋で生まれたという伝承を思わせます。さらに、太子の母・穴穂部間人皇女が夢の中で金色の僧侶(救世観音)から受胎告知を受けたという逸話も残されており、キリスト教のマリア受胎告知と構造が似ています。

こうした伝承が単なる偶然でしょうか。飛鳥時代にはシルクロードを経て景教(ネストリウス派キリスト教)が中国へ伝来しており、日本にもその影響が及んでいた可能性があります。聖徳太子が推し進めた国際的な文化政策の背後に、中東由来の思想が流れ込んでいたとしても不思議ではありません。

「はしひと」と「波斯」―ペルシャの血脈?

聖徳太子の母、穴穂部間人皇女(はしひとひめみこ)の名にも注目すべき点があります。「はしひと」の「はし」を漢字で「波斯」と書くと、これは中国でペルシャ(Parsa)を意味する言葉です。つまり、間人皇女の名前はペルシャとの関係を示す痕跡である可能性があるのです。

飛鳥の宮廷には秦氏をはじめとする渡来系氏族が多く集い、技術や宗教、暦学、建築法を伝えていました。その証拠に、聖徳太子が建立した法隆寺の回廊柱には、ギリシャ建築の宮殿で用いられた「エンタシス」と呼ばれるふくらみを持たせた構造が採用されています。こうした様式はシルクロードを経由してもたらされた西方建築の影響を示しており、飛鳥の宮廷が異文化の知を積極的に取り入れていたことを物語っています。

太子道と天の秩序

太子が斑鳩宮と飛鳥宮を往来するために築かせた「太子道(筋違道)」もまた、謎に満ちた遺構です。この道は条里制の南北軸から約20度ずらされており、北に向かってやや西寄りに伸びています。単なる利便性では説明しきれないこの傾きには、天体や方位を意識した儀礼的設計が隠されていたのではないかと考えられます。

興味深いことに、この20度の傾きは、鹿島神宮奥宮の北北西20度という聖方位とも響き合います。鹿島奥宮は冬至の夜、天空に輝くシリウスの方角を指すとされ、星と神を結ぶ天文信仰の痕跡とされています。聖徳太子が国づくりの思想において、こうした星辰信仰=天の秩序を取り入れていた可能性は否定できません。

ゾロアスター教の光と飛鳥の思想

ここで思い出したいのが、ゾロアスター教です。ササーン朝ペルシャの国教であったこの宗教は、

聖火(アータシュ)
聖水(アーブ)
聖地(パン)
という三つの要素を中心に宇宙秩序(アシャ)を祀ります。

聖徳太子の制定した十七条憲法には、「和を以て貴しと為す」という調和の精神が込められていますが、これはゾロアスター教のアシャ(真理・秩序)と相通じる理念です。太子が説いた調和は、単なる仏教的慈悲だけではなく、天と人と社会を秩序づける宇宙観に根ざしていたのかもしれません。

厳島神社の抜頭の舞に見る異国の記憶

ペルシャやインドからの文化の痕跡は、祭祀芸能にも見え隠れします。広島・厳島神社で今も奉納される舞楽「抜頭(ばとう)」は、父を獣に殺された息子が仇討ちを果たす物語を描いた舞で、起源をインドに持つと伝わります。こうした異国由来の芸能が神道の中で受け継がれてきたことは、飛鳥時代の多文化共生を象徴するものです。

おわりに ― 飛鳥はシルクロードの果てだった

聖徳太子の背後には、仏教だけでなく、キリスト教・ゾロアスター教・ミトラ教といった古代ペルシャを源流とする思想が流れ込んでいた可能性があります。太子道の方位や鹿島神宮の星の軸線に示されるように、飛鳥は天と地と星をつなぐ秩序を求めた国づくりの舞台でもあったのです。

こうして見ていくと、聖徳太子の思想や飛鳥文化は、日本だけのものではなく、シルクロードの東端で融合した広大な文化圏の一部であったことがわかります。