宮司の直井です。
節分といえば豆まき、というほど日本の暮らしに深く根付いた行事ですが、「なぜ豆をまくのか」と改めて考える機会は意外と少ないのではないでしょうか。今回は、一般的に知られている節分の意味から、神社で行われる節分祭の考え方、そして少し神話に寄り道しながら「本当に豆でよかったのか?」という視点までお話ししたいと思います。
節分とは何の日か
節分とは、文字どおり季節の分かれ目を意味する言葉です。現在では立春の前日を指しますが、もともとは立夏・立秋・立冬の前日も節分と呼ばれていました。
季節が切り替わるときは、体調や気分が不安定になりやすく、昔の人々はそこに災いや穢れが入り込みやすいと考えてきました。そのため節分は、新しい季節を迎える前に身の回りを整える「祓いの日」とされてきたのです。
なぜ節分に豆をまくのか
豆まきの由来には、いくつかの意味が重なっています。
まずよく知られているのが、「豆(まめ)=魔を滅する(まめ)」という言葉の響きです。声を出し、豆を投げることで、目に見えない災いを追い払う力があると考えられてきました。
また、豆は土に蒔けば芽を出す、生命力の象徴でもあります。節分に豆をまくことは、悪いものを祓うだけでなく、これから育っていく命の場を整えるという意味も含んでいます。
なぜ豆は「炒る」のか
節分で使われる豆は、生豆ではなく炒り豆です。
これは、生の豆をまくと芽が出て、祓ったはずの災いが再び芽吹くと考えられていたためです。
一度火を通した豆を使うことで、祓ったものが戻ってこないようにするという、日本人らしい細やかな考え方が表れています。
神社で行われる節分祭の豆まき
神社の節分祭で行われる豆まきは、単なる行事や催しではありません。
一年の災厄を祓い、地域全体の無事を願い、新しい季節を清らかに迎える。そうした祈りを、誰の目にも分かる形にしたものが豆まきです。家庭で行う豆まきも、この考え方は同じで、大切なのは形よりも心の持ちようにあります。
ところで、神道的には「豆」でいいのか
ここで少し、神話の話をしてみましょう。
日本神話では、イザナギ命が黄泉の国から逃げ帰る際、追いかけてくる黄泉の者たちに向かって桃の実を投げたと語られています。この桃によって、災いは退けられ、現世は守られました。
つまり、神話の世界では、災いを祓ったのは豆ではなく桃なのです。
そう考えると、「節分は本当は桃まきのほうが神道的には正しいのでは?」と思えてきますが、さすがに桃を投げるわけにもいきません。
そこで登場するのが、手に入りやすく、扱いやすく、しかも意味が重なった豆だったのでしょう。
豆も桃も、役割は同じ
豆と桃に共通しているのは、災いを倒すのではなく、近づけないという考え方です。
神道における祓いは、力で打ち負かすことではありません。境を定め、こちら側を清らかに保つこと。豆まきも、桃の神話も、その本質は同じところにあります。
節分の豆まきが伝えていること
節分に豆をまくのは、鬼を怖がらせるためでも、誰かを追い払うためでもありません。
一年の節目に、自分の内と外を見つめ直し、新しい季節を迎える準備をするための、日本人らしい知恵です。
豆であれ、桃であれ、大切なのは祓いの心。
節分祭は、そのことを今に伝えてくれる大切な行事なのです。